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吉田拓郎オールナイトニッポンGOLD20221015メモ

ゲストは篠原ともえさん。個人的には「LOVE LOVE あいしてる」の音作りのお話が聞けてよかった。

メモ

アマテラス愛子(佳代さん);拓郎さんのマンションは天岩戸と呼ばれている

1曲目「全部抱きしめて」


全部だきしめて


篠原ともえさん登場

剛さんにはアタリがそんなに無いが光一さんにはアタリがキツイ。光一さんにとっては男とか女ではなく、篠原ともえという存在。(篠原さんと光一さん)拓郎さんと収録が終わった後に花束を Kinki Kidsから渡して、その時になんとも言えない、静かで華やかで感動的な時間が体感としては10分くらいだったのではないか?時が止まったような美しい時間。その時に誰も声も音も出さずに花束を受け取った拓郎さんを静かに見守る。あの時の拓郎さんの表情を一生忘れない。

ハワイロケの篠原さんのメイクのお話。白かった … ハワイに行って篠原さんが星を観る話。篠原さんの「星」の番組に繋がっている … ハワイロケの時に拓郎さんと Kinki Kids 、篠原ともえさんは打ち解けた。

「LOVE LOVE あいしてる」が始まる前や最初の頃のお話。篠原さん達はピュアで、本当に拓郎さんの事が好きだった。拓郎さんが心を開いてくれる前は、視界に入らないように … 1年くらい経って、打ち解けた。

拓郎さんはエド・サリヴァン・ショーがやりたかった。篠原さん曰く、音的にはエド・サリヴァン・ショーだった。当時は音楽番組はあったが、ほぼカラオケだったり、生演奏があっても音に対しての機材が揃っていなくて、それで拓郎さんがリハーサルをしている時に大怒鳴りしていて、「何故、PAさんがスタジオ側とテレビ側にいないんだ?」当時は拓郎さんが音に怒っている理由も解らないくらいの感じだった。最初のリハーサルや会議で拓郎さんが怒っている感じで、次から、とんでもない豪華なセットが。足元スピーカー、返し(モニタースピーカー)がライブのステージのように無いとダメだという事で拓郎さんが昨今の歌番組に必要な返しを取り入れた。現在の音楽番組のクオリティの根本を変えたのは、「LOVE LOVE あいしてる」が始まりだった。

(拓郎さん曰く)こんな事をやっていたら音楽番組と言えない。もっと音楽的なクオリティを上げないと。ここに集めているミュージシャンの顔ぶれを見てくれ。こんな凄いミュージシャンが集まっているのに、こんな貧弱な音でどうするんだ?音を録ったままではなくて、エンジニアという人がいるんだから、ちゃんとミキシングとかをして、今風の音を作るとか、そういう事を全部やれ。あの番組はイチからだった。放送局のエンジニアはいるが、あまり慣れていない。例えばチャンネル数がすごく多いレコーディングに慣れていなくて、例えば 2ch、4ch、8ch くらいのミキサーでやるくらいの感じだったが、すごいミュージシャンが入っていて、1人1個のトラックは絶対必要だったので、16ch、32ch は最低無いとダメという話から始まって、そこから、ミックスダウンという作業があるのをテレビとかであまりやっていない。それを武部さん、吉田健さん等のミュージシャンが入って参加して、トラックダウンという事を作り上げる事にした。音楽作りは一人では出来ないし、沢山の人達の協力が必要だという事が解って来て、それを浸透していく事によって、スタッフとも打ち解けるようになって、4年くらい、終わりの頃は何も言わなくてもきちんと出来るようになっていた。

篠原さんがデザイナーになった経緯。デビュー当時は篠原さんはシノラーファッション、アクセサリーも自分で拵えてスタイリングしていた。洋服が好きだったのは小学生の頃。デザイン画を沢山描いたり、中学生の時も独学で洋服を作っていた。篠原さんのお母様が洋裁が好きだった。いつかデザイナーになりたいな、と小中学校の頃から思っていた。高校はデザイン学科専門の高校に進学して、デビューしてからも大学は服飾学科の文化学院に進んだ。ライブの衣装、グッズをデザインするのは楽しい、自分の服を作るのは楽しいと思っていたのだが、「誰かに提供する、誰かの為に作るのは出来るのかな?そもそも、そうった話が来るのかな?」と思っていて、やりたいけれども、出来るのかな?と思ったのが丁度、20代くらい。拓郎さんと出会った頃。ある時に拓郎さんが「この洋服等、篠原が全部デザインしたり作ったりしているんでしょう?面白いから、篠原、デザイナーになれよ」と言ってくれた。だから、「拓郎さんが背中を押してくれた」と篠原さんは思っているが、拓郎さんは、この事を憶えていない。

篠原さんは「拓郎さん、私は他人にデザインするとか出来るか?解らないです」と言ったら、拓郎さんは「自分が持っているアイデアというものは皆に配るものなんだ。」。「えっ?そんな事が出来るんですか?」(拓郎さん)「僕が曲を作って色々な人に届けて楽曲提供したように、篠原が持っている服とかデザインのアイデアというのは、自分だけで独り占めにするのではなくて、色々な人に届けてあげなくてはダメだよ。それが君のする事だよ」と仰っていたとの事。

(篠原さん)そこで不思議なご縁で、2013年頃に、松任谷正隆さんから「ユーミンの衣装をやってみない?」と言われた時に、お話をいただいた時に、拓郎さんの言葉を思い出して、「これだ、捧げる時が来た。」拓郎さんは忘れているけれども。一番最初に拓郎さんに連絡した。拓郎さんが「ユーミンの為に捧げなさい、君のアイデアを」。忘れているのに、その時と同じ事を拓郎さんが言っていた。そこで、後から繋がるのが、正隆さんが最初にレコーディングした曲は拓郎さんのアルバム「人間なんて」だったという、全部が繋がって、篠原さんの中で、不思議な力を….。

2曲目「僕の大好きな場所」。


僕の大好きな場所(From AL「AGAIN」)


「僕の大好きな場所」。この曲は拓郎さんの曲先。(篠原さん)拓郎さんが言っていたのは、「人生というのは、もっと、海だったり、空だったり、すごく広くて豊かなんだ。そして、小さな出来事とかで人の心は変わるんだ。だから、色々な出来事を、この歌詞の中に入れて、人を幸せにするような、これを聞いて、みんながハワイに行きたいな?という事を思うような歌詞が出来るはずだ。出来事を入れなさい。自分の体験、喜びを入れなさい」。不思議なのは拓郎さんから言われたら、歌詞が振って来た。

「LOVE LOVE あいしてる」の時の曲のお話。

コシノジュンコさんのご自宅に一緒に伺ったお話。

篠原さんは高校時代は天文部だった。学校が専門的にデザインの事を勉強する学校だった。グラフィック、建築、写真、平面構成。写真は現像を自分で。ここで拓郎さんが写真部だったお話 … 。

篠原さんと佳代さんは、よく女子トークをしている。

佳代さんが拓郎さんに送るメールを間違えて篠原さんに送ってしまった … お話 等。

篠原さんは中学生の時は軽音部だった。

篠原さんはユニコーンが好きだった。

歌の中で、篠原さんへの掛け声と奈緒さんへの掛け声が、だいぶ違う。

3曲目 「 Together 」


Together


篠原さんのご主人のお話。最初の出会いはお仕事。展示会の打ち合わせの時 … 。作品が3万枚くらいあった。「どうして、この道を続けてこなかったの?」「デザインの方を続けて行ったら良いんじゃないの?」 … 。デザインについてはご主人の存在がすごく大きかった。

篠原さんのご主人のお話。最初の出会いはお仕事。展示会の打ち合わせの時 … 。作品が3万枚くらいあった。「どうして、この道を続けてこなかったの?」「デザインの方を続けて行ったら良いんじゃないの?」 … 。デザインについてはご主人の存在がすごく大きかった。

4曲目「パパのニュー・バッグ」ジェームス・ブラウン


パパのニュー・バッグ









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